長野といえば「善光寺」というイメージを持っている人はたくさんいます。
善光寺は長野を代表する寺院です。長野で行われているNAGANO検定でもかなりの確率で善光寺の項目が出てきます。
ここでは善光寺にまつわるNAGANO検定のポイントをまとめてみました。
国宝に指定された善光寺
善光寺の現在の本堂は300年前に建立された建物です。国宝に指定されたのは昭和28年(1953年)です。
僧妙達蘇生注記と善光寺
文献上に初めて善光寺の名前が現れたのが、10世紀に成立した「僧妙達蘇生注記」でした。
善光寺縁起
欽明天皇13年に阿弥陀三尊仏が百済より渡来。水内郡芋井の郷に草堂を建て、善光寺としたとされるのが創建に関わる話。
善光寺縁起では善光寺の本尊である阿弥陀三尊仏の渡来経路は天竺〜百済〜日本となっています。
善光寺本尊は天竺の月蓋長者が阿弥陀如来の力で娘の病が全快したことに感激して、そのお姿を形作ったもの。娘の名前は如是姫。
女人救済の特徴
善光寺は信仰の特徴として女人救済があり、江戸時代以降多くの女性の信仰を集めました。将軍綱吉の母で善光寺大勧進に伝わる女性は、桂昌院。
流転した阿弥陀三尊仏
善光寺の本尊である阿弥陀三尊像は戦国時代に武将の手により各地を流転しました。川中島の合戦の後、武田信玄によって善光寺から 甲斐国に移された後の正しい順番
武田信玄〜織田信長〜徳川家康〜豊臣秀吉
牛に引かれて善光寺参り
牛が角にひっかけて持って行ってしまったのは布。
持郡制
善光寺の参詣客を宿泊させる施設間の客引き争いを防ぐために、参詣客を諸国の郡ごとに決まった宿坊に振り分ける制度。
善光寺と郷路石
江戸時代の中期、正徳3〜4年にかけて火事で焼けた善光寺本堂が再建された後、郷路石と呼ばれる石で参道の敷石が整備されました。
大竹屋平兵衛の寄進によってのものです。この石は西長野の郷路山から掘り出されたもので郷路石と呼ばれたということです。
善光寺講
江戸時代、お金を出し合い旅行資金を積み立てて善光寺に参詣する組織が各地にありました。滋賀県草津町で作られた組織はのちに株式会社日本旅行へと発展しました。この組織の名称が善光寺講です。
善光寺の宿坊の数
現在は善光寺の宿坊は39あります。
善光寺大地震
弘化4年(1847)3月24日、マギュニチュード7.4と推定される地震が起きました。これを善光寺大地震と呼びます。
善光寺地震の体験を後世に伝えるために、永井善左衛門幸一は「地震後世俗語之種」をまとめました。これは善光寺地震を見聞きしたことをまとめて挿絵も自分で描いたものです。
永井善左衛門幸一は権堂村の名主です。善光寺地震により生じた断層を見ることができるのはひまわり公園。
善光寺平洪水水位標
江戸から明治の6回の洪水の中で最も高い水位を記録した洪水は戌の満水と呼ばれています。
善光寺山門
善光寺山門(三門)の楼上には「鳩字の額」と呼ばれる善光寺の額が掲げられてます。額の文字中に隠れているという鳩は全部で5羽います。
御印文頂戴
善光寺で正月の7日〜15日までの間行われる年中行事
善光寺門前都市の発展
善光寺門前については「一遍聖絵」や「遊行上人縁起絵」などの絵画資料に記載されています。
善光寺への参詣には関東からは鎌倉街道、京からは北六道を経由して入ることができました。善光寺周辺には仏師や絵師がたくさんいて、仏師については文保元年から元徳4年に制作された「仏師善光寺住侶妙海」の作品が残されていたことから、仏師集団がいたことが想像されます。
善光寺建造物と仏像
善光寺本堂
元禄16年(1703年)に着手し、宝永4年(1707年)に完成しました。設計は木村万兵衛が棟梁となって工事をしました。
棟のの形がT字型になっている撞木造といわれる珍しい様式。
善光寺山門(三門)
1744年末に工事を初めて、1750年に完成しました。山門としては例をみない大建築です。両わきは花頭窓付き板壁。組持は三手先爪組。二層は正面3間に双折桟唐戸をつり、両わきは連子窓。
善光寺経蔵
1754年に建築を始め、1759年に完成。中には一切経を収めてある。
金銅阿弥陀如来及び両脇侍立像
善光寺本尊の分身仏でご開帳の折に本尊のお前立ちとしてご開帳されることから、前立本尊と呼ばれている。鎌倉時代の作。
銅像釈迦涅槃像
善光寺元善町の世尊院に安置されて、北の方角を頭にして横たわっている像です。
善光寺だけでもかなりの内容が詰められています。いかに長野にとって善光寺は偉大な建造物であるのかということがわかります。